昭和五十七年五月二十日 朝の御理解
一、やれ痛やと云ふ心で有難う、今霊験をと云ふ心になれよ。
一、神の教えも真の道も知らぬ人のあはれさ。
昨日、熊本からと云うて二人のお参りがございましたが、息子さんがギャンブル好きで、もう云うても聞かず、何とか立ち直らせたい。と云うお願いにみえられました。
止めよ、止めよ、と云うてはいけんね。もうそれは、めぐりのお取払いだからね。
今日の御理解ぢゃないですけど、やれ痛や、今霊験をと云う心に、今日頂いた御教えを話してあげたんですね。
教祖様はめぐりと云う事を云われるが、もうどうしようもない。 これは、私が、まだ北支におります時分の話でしたけれど、大体、人はとても善いんですけど、もう素晴らしい嘘の名人なのです。
千すりゃ万一と云う、大変な嘘の名人で、あちらこちらに嘘を云うては借金をする。
私の方にも、少しひっかかっておりましたから集金に参りますと、息子と云うのが、親のそうした借金を出来るだけ自分が働いて払うから、まあ待ってくれ、と云うように非常に出来た人間であった。 お父さんはそんなふうで、それこそ千すりゃ万一と云われるような人。
私の村が一緒でした人が家のくら男に来てましたから、ある時、聞きましたんです。
「あそこに、ああ云う息子さんがおったが、どげんなったですか」「それがあなた、親父まさりになっとる」。
親父が死んだ後に、そりゃまあ親父以上に嘘の名人になっとると云う。
私はそん時に、もう本当にめぐりと云うのは恐ろしいもんだな、と思いました。
親が嘘を云うて沢山の借金をあちらこちらに作り、それで難儀しておるのだから、もう嘘は云うてはならん、云わんどこ。と思っておったかも知れんけれども、親父が亡くなった後には親父まさりの嘘つきになっておる。もうどうにもしようがない。
めぐりとは、そんな事だろう。と云うて、私は昨日五名の方に話したんです。
そしたらそのうち二人が、そんなに悲しい話ぢゃないのに、目をおさえて泣きなさるのです。どういう事ぢゃったぢゃろか。
所がやっぱり、その一家一門がギャンブル好きだそうです。お父さんもやっぱりそうだった。
云うならめぐりの恐ろしさ。
だから、そのめぐりのお取り払いを頂いておかんと、今度も又可愛い子や孫に伝わるよ。と私が話したんですね。
子や孫に伝えたくなかったら、此処で一つ根切れのおかげを頂いて。
根切れのおかげを頂く為には、やれ痛や、今霊験を、と云う心になれよ。と云う事になるね。
又使うた、又ギャンブルに行っておる、と云う時にです。
又行った、又使う、と云わずにね。
その事は神様へ持って来て、やれ痛や、今私の方のめぐりの取り払いを頂いております。有り難うございます。と云うて御礼を申し上げるような信心になると、めぐりが切れる。と云う話しを致しました。
真の道も、信心の道も知らぬ人のあわれさ、と云うふうに二ヶ条目にございましたが、例へ神光様の御信心を頂いておる、と云うだけが、真の道とか真の信心をしておる、と云う事ぢゃない訳ですね。 神の教えも真の道も知らぬ人のあはれさ、ね。
教え頂いても、只知っておる。と云うだけではなくて、教えを芯から行じなければ、真の道を知らんのも同じ事ね。
そこで私は今、二ヶ条読んでもらいましたが、信心により教えを頂き、本当の事が分かると云う事。
難儀の正体を切って除くような、と云うだけではいけない。
私は或る人から聞いたんですけども、例えば、肺病で血を吐くとか熱が出るとかは、自懐作用だそうですね。健康になる事の為の一つの働きだそうです。
云うならば身体のめぐりを取り払って下さってあるのだから、そこで慌てたりせずに、やれ痛や、今霊験を、と云うような心。
それこそ、胆が出ても血が出ても、お取り払いとして御礼を云うような心持が生まれるとおかげになるのです。
さあ、血を吐いたと驚きまわる、と云うのではなくて、お取り払いを頂いた、やれ痛や、今霊験を、と云う心になれよと。
合楽の場合は、そこの所が、克明に説く訳ですね。
神愛ですから成り行きを尊ぶとか、大切にするとか、土の心でとか、と云うふうに、それを頂いて行くうちに実顕が生まれ実証が生まれる。
成程そうだなあ、と云う事が分かってくる。確信づけられてくるね。
そこで、やれ痛や、今霊験を、と、どんな場合であっても、その事をめぐりのお取り払い、今こそおかげが始まった。としてそれを頂く心になればね。そこからおかげの道が付いてくる。
めぐりの根絶と云う事にもなるのですね。
困った事ぢゃある。難儀な事ぢゃある。と頂いたのでは、おかげにならん。
やれ痛や、今霊験を、と云う心になれよ。
今、めぐりのお取り払いを頂いておる、としてそこを頂けれる為に信心の稽古をする、為に御理念の実顕である。実証であるね。
そこから、どんな場合であってもおかげが、と云う事。
さあどうしようとか、と云ったような場合でも、そりゃおかげよ、と云えれる訳。
私は信心生活が身に付いてこなければね、この二ヶ条目に云ってある、真の道も信心の道も知らぬ者のあはれさ。と云うのです。
信心しておっても、そこが分からなかったらね。
お話は頂いておっても、それが分かっていなかったとしたら、ひとしお、哀れをもよおしますね。感じますね。
お互いどうでも一つ、やれ痛や、今霊験を、と云う心が自ずと、どんな場合でも出てくるような生き方、又、そういう信心を身に付けていきたい。
「どうぞ」